
映画・ドラマ短評『ガーンダーリー: 暗闇の追跡者』(2026)
「ガーンダーリー」とは、叙事詩『マハーバーラタ』に登場する盲目の王ドリタラーシュトラの妻の名である。彼女自身は盲目ではなかったが、夫と同じ世界を生きるため、自ら目を覆って過ごしたとされる王妃だ。
そんな人物になぞらえたタイトルからも分かるように、本作では主人公バニが盲目を装いながら、子どもを専門とする人身売買組織「ブラックホール」と対決する。
娘を目の前で誘拐されたバニは、犯人を追う途中で鉄骨に衝突し、一時的に視力を失う。娘を守れなかった無力感から、盲目の状態でも彼女を救えるよう聴覚を鍛え、やがて超人的ともいえる感覚を身につけていく。このあたりは、視覚を失ったヒーローが研ぎ澄まされた感覚を武器に戦う『デアデビル』をかなり意識したような展開だ。
そして視力が回復した後も、バニは盲目のふりを続け、街の裏側を探っていく。つまり本作における「盲目」とは、単なる主人公のハンディキャップや特殊能力を成立させるための設定ではない。普段は見えていないものを、あえて「見えない者」になることで見るという逆説的な仕掛けにもなっている。
タイトルにはインド神話を持ち込み、題材としてもインド社会が抱える深刻な人身売買問題を扱っている。行方不明者の多さや、人身売買組織の摘発が容易ではない現実を背景に、作中でも人身売買対策班が思うように動けない状況が描かれる。
さらに、架空の街ジョイプラでは警察から民間施設までが犯罪組織と結びつき、街そのものが巨大な人身売買カルテルのような構造を形成している。祝祭や地域共同体が犯罪の隠れみのとなる描写も含め、インド社会の暗部をサスペンスへ落とし込もうとする狙いは明確だ。
ただし、その社会派的な装いとは裏腹に、作品の根底にあるのはかなりシンプルなアメコミ・ヒーロー映画の文法である。
ジョイプラという街全体を覆う腐敗構造は、『デアデビル』におけるヘルズ・キッチンの暗黒街を思わせるし、メインビジュアルにも使われている、バニがマンホールの蓋を盾として構える姿は、どう見てもキャプテン・アメリカを連想させる(さすがに『仮面ライダージオウ』でマンホールの蓋を武器にした釈由美子ではないはず)。単なる偶然として片づけるにはアメコミ的なイメージが多いし、『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』でジョン・ウォーカーが盾を使って相手を殺害する場面を思わせるカットまで登場していた。『デアデビル』的な設定と合わせれば、本作がアメコミ作品からかなり積極的にモチーフを取り込んでいることは間違いないだろう。
一方で、そうした見せ場の強さに比べると、脚本には粗さが残る。
とりわけ気になるのが、娘が誘拐されてから一か月以上もの時間が経過している点だ。バニについて「怪しまれないようタイミングをうかがっていた」という説明はあるものの、街全体が犯罪組織と結託しているほど巨大なネットワークなら、むしろもっと迅速に事態を処理できたのではないかという疑問が残る。主人公に訓練期間を与えるための時間設定が先にあり、そのために物語上の都合を合わせたようにも見えてしまう。
脚本を手がけたカニカ・ディロンは、『ラ・ワン』の共同脚本や『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』のアシスタントを経て、『美に魅せられて』など、タープシー・パンヌ主演作を複数手がけてきた脚本家だ。女性主人公の強さやスターとしての見せ場を作ることには長けており、本作でも娘を救うため自ら戦うバニのヒロイックな姿には説得力がある。
だからこそ惜しい。インド神話、人身売買という社会問題、そしてアメコミ的ヒーロー映画という異なる要素を大胆に組み合わせた発想自体は面白い。タープシーを「母でありヒーローでもある存在」として見せることにも成功している。
しかし、派手なモチーフや見せ場を積み重ねる一方で、それを支える細部のロジックにはもう少し慎重さが必要だった。社会派スリラーとして見るには粗く、アメコミ映画として楽しむには振り切れていない。その中間に位置するアンバランスさこそが、本作のおもしろさであると同時に最大の弱点でもある。
音楽は「インド音楽ディスクガイド」にも参加してもらった、ショー・ポリス(Shor Police)が手掛けており、スコアが中心となっているが、アリジット・シンとのデュエットした「Into You」が話題にアナーニャ・シャルマ(Ananya Sharma)が「Dil Jaaneya」に参加している。


