
ジェルーシャ・メンデス(Jerusha Mendes)「Hooked on U」ヴァイオリニストが自らの声で描き出すラブストーリー
インドのインディペンデント・シーンでは、シンガーソングライターが楽器演奏もこなすこと自体は決して珍しくない。しかし、ジェルーシャ・メンデス(Jerusha Mendes)の歩んできたキャリアは、その順序が少し異なっている。彼女はまずシンガーではなく、ヴァイオリニストとして音楽シーンで存在感を築いてきたミュージシャンだからだ。
ムンバイを拠点とするジェルーシャは、学生時代からヴァイオリン奏者として活動しており、セント・ザビエルズ・カレッジ(St. Xavier’s College)の記録にも、2018~19年度のインディアン・ミュージック・グループ(Indian Music Group)のコンサート「Aaroh」でヴァイオリンを演奏したことが残されている。
また翌年度の大学誌では、彼女自身が「professional Violinist and Guitarist」と紹介されている。つまりヴァイオリンだけではなくギターも演奏する、マルチ・インストゥルメンタリストとして音楽経験を積んできた人物である。
そんな彼女の名前を広く知らしめた仕事のひとつが、インドの人気バンド、サナム(SANAM)との共演だった。2021年、サナムが1971年の映画『Buddha Mil Gaya』の名曲「Raat Kali Ek Khwab Mein Aai」をカヴァーした際、ジェルーシャはフィーチャリング・ヴァイオリニストとして参加。原曲のロマンティックなメロディーを損なうことなく、ヴァイオリンによって新しい色彩を与えている。
さらにパレーシュ・パフージャ(Paresh Pahuja)の「Dooron Dooron」のライブ・バージョンにもヴァイオリン奏者として参加しており、シンガーの後方で演奏するセッション・ミュージシャンとしても着実にキャリアを積み重ねてきた。
そうした彼女が2026年4月18日に発表したのが、自身名義による「Hooked on U」だ。配信上では3分12秒のシングルとしてリリースされ、クレジットはトゥエルヴ・ストリングス・プロダクション(Twelve Strings Production)。
これまでのジェルーシャを知っている人にとって興味深いのは、ここで彼女が単なる「ヴァイオリニストのソロ作品」を作っているわけではないということだ。「Hooked on U」は、彼女自身を前面に押し出したポップ・アーティストとしての作品であり、タイトル通り、誰かに夢中になっていく感情を描いたストレートなラブソングとなっている。
「Hooked」という言葉には、単純な「好き」よりも強いニュアンスがある。「夢中になっている」「ハマっている」、さらに文脈によっては「抜け出せない」という意味まで含んでいる。つまり「Hooked on You」とは、相手を愛しているという告白だけではなく、気がつけば相手の存在から逃れられなくなっている状態だ。
そのため、この曲で描かれる恋愛は大げさな悲恋でも、ドラマティックな運命の恋でもない。むしろ誰かと出会い、その人物について考える時間が少しずつ増え、いつの間にか日常そのものが相手を中心に回り始める――そんな恋愛の初期衝動をポップソングへ変換した作品として聴くことができる。
サウンドもその感覚に合わせている。強烈なビートや派手なドロップで押し切る現代的なダンス・ポップとは異なり、全体としては軽やかで親密だ。重要なのは、彼女が長年培ってきた「旋律を演奏する人」としての感覚が、歌にも反映されていることだろう。
ヴァイオリンは基本的に単音でメロディーを描く楽器であり、弓の強弱、音の伸ばし方、わずかな揺らぎによって感情を表現する。ジェルーシャの音楽には、そうしたメロディーを横方向に流していく感覚がある。ボーカルについても、圧倒的な声量や技巧を見せつける方向ではなく、メロディーそのものの心地よさを優先している。そのため「歌手が歌い上げる」というより、彼女自身がひとつの楽器となって楽曲のなかに溶け込んでいるような印象を受ける。
そして「Hooked on U」の魅力は、こうした音楽的背景と恋愛というテーマの相性の良さにもある。ヴァイオリンという楽器は、インド映画音楽においても長年「ロマンス」を表現してきた楽器のひとつだ。一方、ジェルーシャのアプローチは、壮大なストリングスを使ったボリウッド的ロマンスとはかなり異なる。もっと小さく、個人的で、日記を覗き込んでいるような距離感がある。
ここには近年のインドの英語圏インディ・ポップに共通する感覚も見える。ヒンディー語映画のために作られた巨大なラブソングではなく、若いミュージシャンが自分自身の言葉と音楽性によって、自分自身の恋愛感情を表現する。映画の登場人物ではなく、アーティスト本人の物語としてラブソングを成立させるという方向性だ。
だからこそ「Hooked on U」は、ジェルーシャ・メンデスにとってひとつの転換点ともいえる。
これまで彼女はサナムやパレーシュ・パフージャらの作品で、ヴァイオリンによって「誰かの歌」に感情を加えてきた。しかし今作では、その位置関係が逆転する。今度は自分自身が物語の中心に立ち、自分の声で恋愛を語るのだ。いわば、誰かのラブソングをヴァイオリンで彩ってきた演奏家が、自分自身のラブストーリーを歌い始めた作品なのである。


