インド『インド警察:テロとの闘い』(Amazonプライム)特集
■映画におけるインド警察の印象を一新したローヒト・シェッティがずっと描きたかった人間ドラマとアクションの調和
1 月 18 日から、日本の Amazon プライムビデオでも配信が開始されたインドドラマ『インド警察:テロとの闘い』。原題は「インディアン・ポリス・フォース」、つまり「インド警察特殊部隊」という意味だが、なぜかドキュメンタリーのような邦題にされてしまったことと、毎度のことながらインドの配信コンテンツが日本ではほとんど宣伝されていないことで、ただでさえ多いコンテン
ツのなかに埋もれてしまっていることには不満が残る。
とくに今作は、本国インドでは地域ごとに大きな Amazon 段ボール型 BOX が設置され、配信開始までのカウントダウンを行うなど、なかなか大規模な PR が行われていた作品であったからだ。それもそのはずで、このドラマシリーズを出掛けたクリエイターは、ボリウッドを代表するヒットメーカーのひとりで、日本でも『チェンナイ・エクスプレス~愛と勇気のヒーロー参上~』(2013)や『サーカス』(2022)といった作品が公開されたことのあるローヒト・シェッティだからだ。
ちなみに『チェンナイ・エクスプレス~愛と勇気のヒーロー参上~』は、世界市場をターゲットとして制作された作品としても知られており、アメリカでインド映画が 2010 年代に小・中規模とはいえ、上映されるようなになった基盤を作った監督のひとりともいえる。
常に視野が海外に向いていることもあって、ローヒト・シェッティという監督の特徴としては、とにかくハリウッドを意識したダイナミックな演出と王道的展開で、観客の胸を熱くさせる生粋のエンタメ監督ということだ。
例えばシャー・ルク・カーンとカジョールが主演を務めた『勇者は再び巡り会う』(Netflix で視聴可能)では、シェイクスピア……もしくはバズ・ラーマン版の『ロミオ+ジュリエット』(1996)を下敷きとしている。シェイクスピアの戯曲を下敷きとしている作品は、公表している、していないに限らずインドではかなりの量が制作されているため、それ自体は珍しくはないのだが、ローヒトの場合は、そこに「ワイルド・スピード」のようなエンタメ性、そして所々にハリウッド作品を彷彿とさせる演出があったりと、とにかく画を飽きさせないものに仕上げてくるのだ。
アクション要素の強い作品の場合は、ハリウッドなども同じように、大味の人間ドラマでも許容範囲となるのだが、一方で『サーカス』のような人間ドラマを中心として描いた作品は、人物描写が弱く、どうしてもコメディ色が強くな
ってしまう。またそれがコテコテの新喜劇のようなものになってしまうことから、作品によって両極端な評価が飛び交う監督でもあるのだが、ただそれ自体も一周回って娯楽監督らしいともいえるのだが……。
そんな娯楽映画監督ローヒト・シェッティが初めて手掛けたドラマシリーズであり、シッダールト・マルホートラやシルパー・シェッティ、ヴィヴェーク・オベロイといったインド映画の最前線で活躍するスターたちを主演にむかえているというのだから、注目しない理由が見当たらないのだ!!
■インド警察を”正義のヒーロー”にした立役者
ローヒト・シェッティが映画界に与えた功績というのは、海外市場の開拓だけではなく、もうひとつある。それは映画内におけるインド警察の印象を大きく変えたことだ。
もちろん、警察を描いた作品が、全て負の要素として描かれていたわけではないが、あくまで娯楽作においては腐敗の象徴や、善悪を分けなくてもモブ的扱われることが多かったし、近年も Netflix で配信されている『ジャックフル
ーツが行方不明』(2023)や『バクシャク -犯罪の告発-』(2024)でも、政治と警察の癒着が皮肉的に描かれていたりと、まだまだ全体的には皮肉的な描き方が多いのは事実だ。ただ、それはインドに限ったことではないかもしれないが……。
そういったインド警察の印象を大きく変えた作品は、「インド大映画祭」の限定上映から飛び出し、1 月から小規模ではあるが全国順次公開中の『ただ空高く舞え』(2020)の主演としても知られるスーリヤの代表作であり、タミル語映画「シンガム」シリーズを、『RRR』のラーマの父親役としても出演していたアジャイ・デーヴガン主演でリメイクした『シンガム』(2011)から始まった「コ
ップ・ユニバース」である。
もともとは南インド映画のリメイクということもあり、当初は泥臭く荒々しいアクションシーンもあったが、徐々に肉弾戦より銃撃戦の方が多くなり、ローヒトの得意とする”ハリウッド感”が大きく反映されていき、独自のシリーズとなっていった。ただ、当初から「マーベル・シネマティック・ユニバース」や「DC エクステンデッド・ユニバース」などに世界観を共有したものとするつもりだったというよりは、作品を増すごとにそうなっていったというのが正しいだろう。
そんな「コップ・ユニバース」は、『シンガム・リターンズ』『シンバ』『スーリヤヴァンシー』、そして現在制作中の『シンガム・アゲイン』、さらにそこに登場する女性版シンガムともいわれるディーピカー・パードゥコーン演じる新キャラクター、シャクティを主人公としたスピンオフ兼続編も制作が予定されているなど、今後も続いていく人気のシリーズだ。。
また「リトル・シンガム」としてアニメ化もされ、子どもたちを中心に人気を博している。2023 年のインド国際映画祭 (IFFI)では長編作品『MahabaliLittle Singham Khalbali Ka Raaz』が上映されたことでも話題となったりと、大人にも人気のあるシリーズだ。
ちなみに今作で描かれているのは、デリー警察。映画版「コップ・ユニバース」で描かれているムンバイ警察ということから、絶妙に合流しない距離感描かれているが、そのうちクロスオーバーの可能性もあるかもしれない……??
■テロリストを”悪”として描くのではなく、そこにいたる背景を描く
「コップ・ユニバース」は、娯楽アクションというジャンルではあるし、ハリウッドでもそういったアクション映画の場合は、テロリストが極端な悪として描かれることが多いが、「コップ・ユニバース」の場合は、実はそうではない。特に近年の作品は繊細な部分がみられるようになってきた。
どういうことかというと、テロリストが、どうしてテロリストになってしまったのか、その経緯や置いたち、若者たちがそこにたどり着いてしまう負のサイクル、例えばイスラム過激派との出会いで思考が変化していく様子を描いた『その手に触れるまで』(2020)のような、感受性豊かな若者や信仰が強いがために横道にそれてしまった繊細な心の揺らぎを描こうと試みてきたのだ。
そして宗教の違いが摩擦を生む、イスラム教徒自体が悪いというようなヒンドゥー至上主義的考えではなく、イスラムヘイトに向かわせない描き方をしている。個人は個人で、宗教や人種はあくまで個性で分かり合えるはずであるというメッセージ性を強調するようになっていった。
人間ドラマを中心として描いた作品では、こういった描き方も近年は珍しくなくなってきたが、アクション映画としては、なかなか珍しいのではないだろうか。とくに近年の作品では、それが色濃く出ており、『スーリヤヴァンシー』では、イスラム教徒たちがヒンドゥー教徒の神ガネーシャの像を一緒に守るといったシーンもあった。
ただ、どうして娯楽作前提という構造上としては、描き辛い部分もあり、結局は強引な方法で決着をつけることになってしまっていた。
しかし『インド警察:テロとの闘い』の場合は、ドラマシリーズということもあって尺も長く、ローヒトが描こうとしてきたメッセージ性をダイレクトに取り入れるチャンスが巡ってきたのだ。
実際に今作は、警察内部の活躍が描かれているのは大前提として、テロを企てる男ザラールも主人公のひとりのように描かれており、ザラールの視点の物語も展開されている。恋人もいて、仲間や家族想いの男ザラールが、いかにして、IS(イスラム過激派)のテロリストとしての道に反れてしまったかを丁寧に描いている。一方でカビール(シッダールト・マルホートラ)もイスラム教徒という設定であ
るが、宗教の違いが問題ではないと強く訴えかけている。
これこそローヒトが長年「コップ・ユニバース」のなかで描きたかったことであり、人間の本質を描き出そうとしたのだ。テロリスト側の背景を丁寧に描くという点では、同じく Amazon プライムのドラマ『ファミリー・マン』シーズン 2 もそうであったように、どちらかが絶体的な正義のような一方的な描き方ではなく、視点を変えることで加害者と被害者の両面がインド人のなかに常に存在しているということを描こうとする作品が増えてきている。
敵対して、武力交戦になってしまう間柄であっても、改めて互いの想いを知ることで、今後何かが変わっていく、人間だから視点を変えれば分かり合えるはずだというメッセージ性も伝わってくるし、そういった描き方は、近年の韓国映画における韓国と北朝鮮の関係性の描き方の変化にも通じる部分がある。もともと同じ国同士で争うこと自体への虚しさも感じさせる。
それを娯楽映画監督でもあるローヒトが描くというのも、また大きな意味があるのだ。
ちなみにザラール役のマヤーンク・ターンドンは、『勇者は再び巡り会う』や『サーカス』といったローヒト作品の助監督である。役者としては『Ehsaas:The Feeling』(2001)に子役で出演したのみで、ほとんど未経験状態。そんなマヤーンクをキャスティングした理由としては、ローヒトが長年仕事を共にしてきたからこそ、ローヒトの伝えたいことを熟知しているからだろう。